俺が依園はつかを嫌いと自覚したのは、いつだったろうか。

 ●

 朝と夜どちらが好きかと問われれば、俺は迷わず夜と回答する。
 夜とは一日の終わり。自分の部屋で誰とも関わらず過ごして、眠っている間は何もかもを忘れていられる。
 だとしたら朝はその逆だ。一日の始まりであり、俺の憂鬱が開始されるのも、当然朝である。そして人と交わりを持つのだって、やはり朝だ。

 母さんが用意してくれている朝食を食べ終え、身嗜みと出発準備を整えた丁度その頃。我が家のインターホンは、日常の一角として自分に課せられた役目を果たした。
 わざわざ誰かを確認する意味はないため、俺は鞄を持ち玄関を開けて、彼女を迎える。

 平均身長から大きくは外れたことのない俺よりも、頭一つ分以上は低い身長。あまり栄養が行き届いているとは思えないが、不健康に見えるかと言われればそうではない。
 それなりには隆起のある体躯に、腰まで伸びている髪には艶やかな美しさがある。相貌は少女としての幼さが残りつつも、どこか憂いを帯び、儚ささえ感じさせた。
 これが俺の幼馴染み、はつかだ。

 物静かで見るからに自己主張が弱く、何処にでもある家庭にて育った少女である。
 だけど、その顔立ちやどことなく他を寄せ付けない雰囲気により、男子から深窓の令嬢とまで揶揄されていた。

「おはよう、リョウ」

「……おはよう」

 抑揚の小さいはつかの挨拶に、俺は少し遅れて礼を反した。
 ちなみにリョウというのは俺のあだ名である。この名前を呼ぶ知人で付き合いがあるのは、もうはつかのみだ。

 俺とはつかは毎朝その一言のみを交わし、学校まで並んで歩く。
 俺達の間に会話をしないという規則が設けられているわけではない。これが俺達の平常なのだ。

 中学までは、もっと雑談しながら登校していた記憶がある。
 あれだって俺が一方的に話しかけて、はつかは相づちをうっていただけだったが。
 それでも夏の蒸し暑さとは対照的な凍えきった関係を続けるよりは、随分とマシだろう。

 まだ小学生だった昔、常にトップの成績を独走するはつかに対して、俺は深いライバル意識を燃やしていた。俺がはつかに話かけるようになったのも、それが理由だったと記憶している。

 しかしはつかは敵愾心を燃やす相手としては、あまりに格と核が違いすぎた。
 中学に上がり勉強が難しくなるにつれて、俺とはつかの成績は縮まるどころか、さらに広がってしまう。

 もう誰がどう見ても追い付けやしない。周りからは何度も諦めろと諭されてすらいた。
 きっと一人ムキになって空回り続ける俺を、他の連中は憐れんでいたのだ。

 それでも俺は諦めきれず無駄な努力を重ねて勉強し、そのお陰で授業を受けるのにメガネが必要になってでも、はつかと同じ進学校へ入った。
 この時は人生の難関を突破した事実に浮かれたものだ。それこそが俺の人生における、最大の過ちだったのに。

 無理して入った高ランクの学校にて俺は勉強についていけなくなり、それはもう一気に落ちぶれた。
 今となっては受験勉強していた時の情熱など見る影もない。そんな急降下の堕落によって、親の期待もはつかとの比較による落胆へシフトしていった。
 だいたいその辺りだろう、俺がはつかとの会話がなくなったのは。

 自分の転落人生を思い返し悲嘆と後悔を重ねながらも、ふと、視線をはつかに移す。この陽射しでも、いつもと変わらず涼しげに歩む彼女は、今でも学年首位の成績を維持し続けている。
 こっちはこんなにも、照りつける太陽に焼かれて干上がっているというのにさ。

「……?」

 俺の視線に気付いたはつかは、小さく小首を傾げて、こっちを見る。
 俺は何でもないように装いながら、視界は黒いアスファルトへ逃避していた。輝く陽射しも、その周囲すら、俺には逃げ場にはならなかったから。

 授業が終わると、図書室に寄るのが俺の日課だ。
 室内は席の半分近くが埋まっており、皆読んでいるのは参考書の類で、漏れなくノートとシャーペンもセット展開されている。
 趣味という欲求を満たすために、この部屋を利用している生徒は俺しかいない。

 昨日借りた本を返却し、新たな本を借りる。今日手に取ったのは、個人的に気に入っているレーベルの文庫本だった。
 事務的な会話しかしたことがない図書委員に貸出し手続きをしてもらい、さっさと図書室から出ていく。

 昔はよく図書室で昼休みと放課後を有意義に過ごしていたけど、自習室と変わりないあの部屋で読者に勤しむ気にはなれない。自宅はさらに論外だ。
 毎日繰り返される母さんの説教を聞きたくないから、夕食までの時間を潰す手段として、俺はあの居場所なき図書室を常用するようになったのである。

 図書室は四階にあり、更にその上を目指して階段を上ると、そこは教室や特別な部屋でもない。完全に開け放たれ外界へと広がる空間。屋上だ。

 昼休みはそれなり活気があり騒がしいが、放課後は人の気配もなく故防止用のフェンスとベンチがあるだけ。
 とても静かで、この時間の屋上は、俺にとって地球上のどこより自由な場所だと思っている――だというのに。

 俺の後方から、一定に階段を踏み鳴らす音が響いてくる。わかってるさ、これだっていつものことなんだから。
 それでも今日は掃除当番になっていたはずだから、もう少し遅いと思っていたのに。
 俺は足音をあえて無視し、ベンチに座って借りてきた本を読み始める。遅れて屋上へ足を踏み入れた、足音の主であるはつかもまた、俺の隣へ座った。

 ここでも会話なんてなく、俺は黙々と本を読むだけ。はつかも人形みたいに同じ姿勢で、俺と同じく図書室で借りたのであろう本を開く。はつかが読むのは、分厚いハードカバーだった。
 予備校や優勢すべき用事がない限り、はつかは一人で屋上までやって来て、俺を中心とした定位置に座る。
 はつかが俺より早い時もあり、そういう時はベンチの端っこの方へ座り俺を待っている。

 俺が来るまでは屋上への入り口をじっと見据えて動かず、俺が来て座ってからようやく本を読み始める。別に俺を待つ理由も、そもそもここへ来る必要性さえない。
 はつかが何をしたいのかわからないし、俺といるためだけなら帰れよと、何度も言おうとしたことはある。
 でもそれは思っただけで、未だ現実に果たせてはいない。もしここではつかを突き放したら、俺は完全に孤立してしまうから。

 高校に入り勉強と戦っていた昔は、はつか以外眼中になかった。
 それが尾を引いて、授業に関する何か以外で他の生徒と話をするなんて滅多にない。
 さらに成績が修復不可能な位置まで落ちてからというもの、家族とすら必要最低限の会話で済ませて部屋に籠っている。

 俺にとってはつかは唯一繋がる誰かであり、彼女まで消えるならば、それで俺の世界は閉じてしまう。
 はつかによって俺の人生は崩れたにも関わらず、はつかに依って自分の居場所を保っている。まるで蜘蛛の糸にしがみついているようだ。
 止めよう。こんなのはやればやるだけ気分が沈むだけで、利益はどこにもないじゃないか。そうやって、息詰まった現実から逃避だと自覚しながら、俺は手元の美しい創作話へと視線を落とす。
 本へ没頭するほんの僅かな間、心の片隅にある何かがすぐに消え入る小さい声で、ぼそりと俺に問いかけた。

 だけど、それでも、ならばこそ。
 はつかは、何を思って俺の隣にいるのだろう?

 ●

 ふと意識を浮上させると、日が傾き茜色に燃え、下校時刻を報せる放送と歌が流れていた。
 考え事をしていても、一度本に集中すれば他の全てはどこか遠くへ押し流される。
 向き合いたくない現実が壁になって押しつぶそうとする生活で、俺が習得した処世のスキルだ。

 処世とは世間に交わって初めて成立するし、誰がどう見たって、こんなの問題を前にしてそれら一切を忌避しているに過ぎないけど。
 これ以上人生を進める最良の方法が、俺には思い浮かばない。

 俺が本を閉じて帰ろうとすると、はつかもすぐ後を追い、俺達は一緒に校門をくぐった。
 言わずもがな、帰り道も途中までは一緒である。

 冷め切った連帯感は、惰性と時折過去の追憶を這い上がらせて、俺の脳を揺らし目に映る世界を歪めていく。
 昔話が心を突き上げて、真っ暗な未来が重く押しつぶし、現在のヴィジョンはぐちゃぐちゃになってしまった。

 その壊れて折り曲がった自分の中心に、依園はつかはずっと同じ表情を張り付かせて、同じ姿で立っている。手の届くはずの距離が無限に感じた。
 この歪みがあるから、俺ははつかと話すらしたくないのだ。はつかと交わす次の疎通は、さようならかまた明日であって欲しい。

「え?」

 しかしそんな懇願に近い希望は、はつかの『いつも通りでない』奇行で容易く破綻した。別れるはずの道を過ぎ去っても、はつかは俺と並んだまま離れず歩いている。
 どこまで行くつもりなんだ? 今日は帰りにどこか寄るつもりなのか、でもはつかと俺の家はそんなに離れていないから、このままだと後数分で俺の家まで来てしまう。

「はつかの家はこっちじゃないだろう?」

 しぶしぶながら、予定にない言葉をはつかへと投げかける。こういうのは最初の台詞を吐き出すのが一番苦しい。
 嫌悪感で胸にずしりと重い氷塊がのしかかってるような気分だった。

「リョウの家」

「何でだよ」

 やっぱり俺の家まで来るつもりなのか。こいつが最後に俺の家へ来たのはもう一年は前だろうに、どうしていきなりこんなことを言い出したんだ?

「聞いて、ないの?」

「聞くって、誰から何をだよ」

「リョウのお母さんから」

 これはもしかして、俺に伝達が行っていないだけで、アポは取られているのか。
 そうこう言っている家に到着してしまった。こうなれば、話の真相を直接母親に聞きだそう。軽く憤りを感じながらドアノブに手をかけるが、ドアは確かな抵抗を示した。

「鍵がかかってるのか」

 タイミング悪く買い物にでも出てるようだ。家の鍵は常備しているので問題はないのだが、これじゃ本格的に俺とはつかの二人だけになってしまうぞ。

 流石に事情聴取する相手もいないまま、はつかを外に放置するわけにもいかない。
 来客を古いロールプレイングゲームのパーティーよろしく後ろに引き連れ、マップとなる我が家へ進入する。

 何かはつかが来訪した理由となる手がかりはないだろうか。ちょっとした懇願も込めて周りを見回すと、それは割と簡単発見できた。
 居間のテーブルにメモ帳から切り離された一枚が、伝言役として待機していたのだ。

 内容はとてもシンプルで、「お父さんと出かけます。帰りはかなり遅くなるでしょう。昨日も伝えましたが、家事ははつかちゃんに頼んでいるので、仲良くしてくださいね」だそうだ。

 おいおい嘘だろ。というか昨日もだって?  そんな会話の記憶は、俺にはないぞ。
 だけど恐らく、それは俺が読書していて母さんの話を空返事で返していた可能性が一番高い。つまり自業自得だった。

 何もかもから逃げるように生活しているのだから、情報から取り残されてしまう。
 そして一番逃げたい相手と二人きりになってしまったわけだ。

 やけくそ気味にメモをまるめ潰し、ようやくそこで、いつの間にかはつかが居なくなってる事実に気付いた。

「はつか? ったく、何処だよあいつ」

 手洗いにでも行ったのかと思ったが、トイレの灯りは点いていなかった。
 まさか密室の失踪か、なんてミステリ地味た馬鹿な妄想し始めた時、主に客間として使ってる部屋から件の少女は現れた。しかも私服で。

「どうしたの?」

 俺はそんな間抜け面していたのか、きょとんとした顔で聞かれてしまった。

「お前がいきなり消えたから探してたんだよ」

「心配してくれてたの?」

「そんなわけあるか」

「そう……」

 少し残念そうに、はつかは落胆し肩を落とす。そう言えば久々はつかとまともに会話しているな。やはり数をこなせば慣れてはくる。

「とにかく、もう勝手にいなくなるなよ」

「うん。ごめんなさい」

「それはそうと、お前が家に来た理由は分かった。しかし、着替えるなら一度家に帰ればいいだろう」

「小母様が、あの部屋自由に使って良いと言ってたから。時間の短縮になるし」

 こういう細かいところで合理的に考える奴だったな、はつかは。俺よりずっと時間の使い方も上手いのだろう。

「そうか。まあ、家の事は頼む。俺は自分の部屋に戻るから」

「リョウは夕食、何が食べたい?」

「何でもいい」

 どうでもいい。
 俺はお前と離れていられるなら、それでいいんだ。

 ●

 そうして一時的に我が家の家政婦となったはつかは、テキパキと家事をこなしていった。
 洗濯物を片付け、夕食を作り、本当に万能で有能な俺と同い年の少女。

 その何処にでも手を伸ばせるはつかの才能が、俺をさらに低い生き物だと認識を改めさせ、嫌悪させる。
 俺はひたすらに勉強だけをしてここまでだったのに、はつかは勉強以外でも普通以上にこなしてしまう。
 お前はこんな程度もできないのかと。あいつの存在が俺をなじるようだ。

 はつかの作った料理は俺が昔から好きだった献立ばかりで、それはとても美味しく、そして俺の好物が減った。
 食事が終わって、また一人の部屋に戻りベッドに腰掛け読書をしていたら、ドアを叩かれ夕食の片づけが終わったはつかがやって来た。

 幼馴染とはいえ一応年頃の男女が個室に、しかも男の部屋に二人きりという状況なのだが、こいつはまるでお構いなしの様子だ。
 意識していないというか、これじゃ俺が自意識過剰みたいに思えてきた。

 はつかは小脇に学校の屋上で読んでいた本を抱えている。ここでも読書をするつもりなのだろうか。
 何となくそれは、俺の最後領域に入って来られるようで、即座に読んでいた本を閉じた俺はテレビを点けた。

 はつかはやはりそこが自分の決まった位置なのだろう。俺の隣にちょこんと腰を下ろし、視線はテレビに向いていた。
 ただしベッドには座らず、カーペットの上で三角座りをしている。

 これも同じ情報を共有しているようで、あまり良い気はしないな。
 何とかする術は無いものかとテレビのリモコンを片手にザッピングしていると、偶然に怪談ドラマを見つけた。

 その途端、はつかの肩がぴくりと震える。こいつはそう、怖い話とか怪談系の物語が苦手なのだ。
 ずっとこれ流しておけばはつかは嫌がって帰るかもしれない。そうでなくても意趣返しには最適じゃないか。

 テレビのリモコンをはつかの座っているのと逆サイドにおいて、俺は番組を固定し本格的に鑑賞を始めてやった。さあどうなるか楽しみだ。
 時折はつかの方を観ると今にも泣き出しそうだったり、恐怖シーンになるたび声は出さずとも過剰に反応していた。
 一緒に観ている奴がここまで怖がると、こっちは冷静になり取り乱すなんてこともない。

 とにかくびびりまくりながら、それでもはつかは怪談番組を耐え切った。恐怖の余韻か、テレビが終わってもはつかは固まったままだったが。
 ああしかし、これはまた厄介だ。なんせ余計に帰りそうな雰囲気がない。しかも原因の一端は俺にあるのだから、即座に帰すのも少々気が退ける。
 だからと言って、いつまでもここにのさばらせて置くわけにもいかない。仕方なく、少々時間を空けてから俺ははつかに声をかけた。

「おい、もう怪談終わって随分経つだろ。そろそろ家に帰れよ」

「やだ」

 顔も向けずに即答かよ。その頑なな態度に、俺のイラつきも膨れ上がる。

「いい加減にしろ、だったら家に泊まるつもりなのかよ」

 どれだけここに居たがっても、外泊の許可までは取ってないだろうし、明日はまた学校もある。
 どうしたって帰らねばならないのだ。だからこう言ってしまえば、はつかは帰らざるを得ない。そう思っていた。
 しかし――はつかはこくりと頷いたのだ。

「馬鹿かお前は!」

 思わず、俺は腰掛けていたベッドから立ち上がり、声を荒げていた。そして上り詰めて爆発した憤怒は、俺自身にも歯止めが利かない。
 これはこの部屋に来てからだけじゃない、ずっとずっと溜め込み圧縮し、無理矢理押し留めていた塊なのだから。

「ふざけるなよ! いつもいつもお前がそばに居るせいで、俺がどれだけ苦しんでると思ってんだよ!」

 俺の感じている世界が、どれだけぐちゃぐちゃで、捻じ曲がっているのか、お前は知っているのか。

「もううんざりなんだよ、こんな生活」

 折り固まって。
 寒くて。
 辛くて。
 苦しくて。
 黒々しくて。
 死にたいくらいに窮屈で、死ぬ勇気なんてないから、やぱりお前の横でまた死にたくなる。

「何処かに行ってくれよ。俺はお前に一生追いつけないってもう嫌ってぐらいわかったさ。だからもう俺にお前を見せ付けないでくれよ。俺は解放されたいんだ!」

 行ける場所なんてあるはずがないのに。俺の人生はとっくに迷路の袋小路にはまっている。どうにかしたくても、どうにもならない。
 それもこれも、全部こいつが……はつかが居たから!
 居たから、どうなんだ?

「やだ。嫌だよ」

 これだけ言っても、はつかからの返事は拒否だった。意味がわからない。どうしてだよ、どうしてお前は、俺を離してくれないんだ。

「私にはリョウしかいないの」

 こちらを向いたはつかは、泣いていた。
 泣いて、俺のズボンを掴んで、縋るようにまた涙を流す。

「私はずっと一人だった。友達も居なくって、話しかけてくれた人も、私がつまらない子だからすぐ離れてく……」

 俺がはつかに声をかけた時、本当にはつかの周りには将来を期待する大人しか居なかったっけ。
 勉強ばかりして、ほとんど喋らないこいつは、ずっと孤立していたんだ。

「リョウだけだったんだよ。私に話しかけてくれて、一緒に歩いてくれたの」

 正直言って、そんなのは偶然に過ぎない。
 偶々はつかの成績を知って、なんとかして追い抜いてやりたいと思っただけなのだから。
 それでも、それすらがはつかには大事な救いの手だったのだと、今初めて知った。

「けれど、高校生になってから、リョウは私とほとんど話をしてくれなくなった」

 あれだけ露骨なら、俺が避けてるのに気付かないわけがないし、そんなのはどうでも良かった。
 単純に俺だってもう、はつかといるのは限界なんだ。

「そんなの、俺じゃなくたっていいだろ。お前はお前を褒めてくれる大人達や、羨ましがる奴等ならいくらでも!」
「皆の言う通りにしてれば褒められたよ」

 それでいいじゃないか。そうしてればお前は讃えられ、脚光を浴びて、俺が欲しかったものを手に入れておいて、それで何の不満があるんだ。

「でも、それで本当に正しいの?」

「本当にって、どういう意味だよ?」

「だって、リョウは私に何度も言ってくれたよ。勉強ができればそれで良いわけじゃないって。そんなのも分かってないから私は何時もつまらなそうにしてるんだって」

「それはっ!」

 俺はとっさに言い返す言葉が見つからなかった。
 はつかに言われてようやく思い出したから。俺は昔、休み時間も予習や復習して誰とも話そうとさえしない、はつかへそう言ったことがある。
 あいつが一人なのを見かねていたから。

「それからだよね、リョウが私と一緒に帰ってくれるようになったのも」

「そう、だったな」

「遊ぶ時だって誘ってくれた。私は賑やかなのが苦手で、運動もあまり得意じゃないから、図書室で一緒に本を読んでくれた」

 当たり前になりすぎて忘れてた。そもそも他の生徒が自習してるような時間に、屋上でただ楽しむためなんて理由で、はつかが本なんて読むわけがない。
 遊びは全部、俺からはつかを誘っていた。だってそうしないとこいつは、このまま大人の言うことだけを聞いて自分さえ居ない世界へ行ってしまいそうだと、昔の俺は思ったんだ。

 最初は全部、こいつよりテストで良い点を取ってやりたい。ただそれだけだった。
 けれど、それから段々とはつかのことが気になって、いつしか彼女の手を引くように二人で歩くようになっていたのだ。
 そして、その手を勝手に離したのも、また俺だった。

「リョウが消えちゃうと、私の居場所は何処にもなくなっちゃう」

 そしてロボットのような視界で見ていた世界から連れ出されたはつかにとって、唯一頼れる存在は外へ放った俺だけしかない。
 そんな大切な思い出すら、自分のぶつかった現実から逃げるのに必死で、俺は見えなくなっていた。
 いや違う。見えないどころか、勝手に歪めて自分の責任さえはつかに擦り付けてきた。

「一人ぼっちは、怖いよ……」

 はつかは、こんなにも俺に助けを求めていたのに。
 俺は盲目で、俺の見た世界には自分しかいなかった。

「はつか……」

 依園はつか。
 ずっと隣に居た他人。
 声にならない悲鳴を上げていた少女。

 こんな俺に、今更何をしてやれる資格があるんだ?
 違う。資格とか、そんな小難しい話じゃない。
 彼女の呼ぶ声がようやく聞こえて、俺の耳に届いたんだ。
 それでもまだ、はつかが憎いか?

 否。結局全部俺の虚構だったのだ。自分の弱さを、ぶつける相手が欲しかっただけ。
 けどもうそれは無しだ。それは苦しくても、ちゃんと背負って行かなきゃいけない。俺だけの問題なんだからさ。

 ならここからははつかの話で、俺がどうしたいかだろう。
 そして、そんな答えはもうずっと昔から出ているじゃないか。
 俺は、ズボンを掴むはつかの手を取って、同じ高さで目を合わせる。ちゃんとはつかの気持ちを受け止めるために。

「ごめんなはつか。俺はずっと自分に必死で、はつかの気持ちをわかってやれなかった」

 わかろうとさえしないで、逆恨みしていた最低な俺を、しかしはつかはまた首を振り否定した。

「私も同じだから。リョウが苦しんでるのをわかってて、一緒にいるのに何もしないでいたもの」

 だからはつかは、俺が嫌がるのをわかっていて、わざわざ話をするために部屋へ来たのか。

「だからリョウ、これで仲直りにしよう」
「ああ。また昔みたいに戻ろう」

 時間はかかるかもしれないけど、これからならきっとできるはずだから。
 俺達はベッドを背に肩を並べて座る。どれくらいぶりだろうか、はつかと二人でこんなに安らぎを感じられるのは。心にあった氷の塊は、いつしかどろりと溶けていった。

「なあ、はつか」

「うん?」

「俺の事、好きか?」

「……わからないよ」

「そうだよな」

「リョウは私の事好き?」

「俺も、わかんないな」

 だって俺達はいつも二人でいるのに、自分しか見えてなかったから。相手を求めていても、あまりに一方通行でしかなかった。

「だけど私は、リョウを好きになりたいって思ってるよ」

 そっとはつかの頬が、俺の肩へと触れた。彼女の温もりが、心にまで伝わってくる。

「ありがとうはつか」

 これからは、自分で作ったレンズを壊して、屈折のないはつかを観ていけるはずだ。
 時間はかかるかもいれないけど、問題ない。だってこれからも俺達は一緒に進んで行くのだからさ。

 苦しさ。
 悲しさ。
 愛しさも。

 分かち合って。想い合って。そうして本当の答えを見つけよう。

「リョウ……」

「どうした?」

「その、おトイレ。一緒に行って欲しいの」

「はい?」

 いや、お待ちなってくれ。今しがた一緒とは言ったが、それはやり過ぎというものだろう。

「だって、リョウが怖い話観るから」

 はつかは羞恥で頬を染めながら、ぷくっと膨れてしまった。
 反省より和みが促されてしまう微笑ましさだけど。

「しょうがないな。じゃあ、行くか」

「うん」

 まずは、ここから、かな?

 ●

 暗い暗い夜が明けて、始まりの朝がやって来る。
 それでも朝はやっぱりまだ苦手だ。

 いきなり全てが変わるわけもないし、自分が変えなきゃ何も変わるわけはない。
 だけど生きている限り、朝は誰にでもやって来て、勝手に命は照らされる。ならば逃げずに立ち向かおうと、俺は決めた。

 それに、疼く気持ちは畏怖だけではなく、今は始まりが待ち遠しくもある。
 妙に生き生きとした俺を、母さんは何やら不審がり、しまいには何やら想像してニヤつきだしていた。

 朝食を食べ終わり、登校の準備を万端に整えた俺へ、定例に従いインターホンが彼女の到着を報せる。
 開かれた世界の向こうには、始まりを照らす暖かな光と、共に歩むべき少女。

 友達とか恋人とか、そんな言葉だけの間柄なんて、見ている奴らが好きに決めればいい。
 大事なのは、俺達が二人でどういう未来を紡いで行くかなのだ。

「おはよう、はつか」

「おはよう、リョウ」

 久し振りに見た彼女の笑顔は太陽の陽射しより眩しく輝いていて、だけど俺はいつまでもはつかを見ていたいと思った。


確かはるか昔、ドラゴンマガジンの短編賞の応募で書いた作品を修正しました。

今読み返すとやったら暗い!
当時も非リアのハートが潰れる! 流れる! 溢れ出る!
くらいのテンションで書いていたような気が。

当時は特に脚本家の井上氏(555やキバの脚本書いてた方)の影響が強かったのです。